勝鬘寺の歴史
| 建長8年 | 開基 安藤袈裟太郎(けさたろう)、高田の顕智(けんち)の勧めに依り、父 円善(えんぜん)と共に出家。信願房 了海(しんがんぼうりょうかい)と名を改める。 | 
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| 正嘉2年 (1258) | 宗祖 在世中、碧海庄赤渋(あおみのしょうあかぞぶ:現 岡崎市赤渋町)に、三河における真宗最初の道場を創建。 | 
| 弘安5年9月19日 (1282) | 開基 了海、多くの人々におしまれながら命終。 その後道場は、南北朝時代を通じ、和田の本寺、大町門徒の本寺として隆盛を極める。 | 
| 正応3年 (1290) | 父 円善、越前大町(福井市内)に専修寺を建て、大町門徒を形成。 後に分かれて三門徒派専照寺(さんもんとはせんしょうじ:福井市)、山元派證誠寺(やまもとはしょうじょうじ:鯖江市横越)、誠照寺派誠照寺(じょうしょうじはじょうしょうじ:鯖江市下深江)の三派となり、後に京都より武生市五分市(たけふしごぶいち)に転住してきた毫摂寺(ごうしょうじ)に加えて四ヶ本山となる。 | 
| 和田門徒はその後、信寂(しんじゃく)、寂静(じゃくじょう)、良縁等有力門弟を多く輩出し、大谷本廟護持(ほんびょうごぢ)にも尽力。覚如上人も一再ならずも当寺を来訪され、時には聖教に親しまれることもあった。 | |
| 文明頃 (1469〜1486) | 9世 了顕(りょうけん)が入寺してから活発な動きをみせ、三河は勿論、尾濃に及ぶ末寺集団を形成。 了顕は、本願寺綽如上人(ほんがんじしゃくにょしょうにん)の血脈分流にあたり、三河では最初の本願寺血脈寺院として隆盛を極めていった。 | 
| 明応5年8月 (1496) | 再興まもなく、水害により赤渋から針崎(現在地)に移る。 | 
| 了顕の長男 了勝(りょうしょう)は第十世を、次男勝祐(しょうゆう)は佐々木上宮寺(ささきじょうぐうじ)、三男興与(こうよ)は、越前専修寺(えちぜんせんじゅじ)をそれぞれ継職し、当寺の分流として特別な関係にあった。 | |
| 永禄6年10月 (1563) | 13世 了意(りょうい)の時、三河一向一揆が起こる。 土呂 本宗寺等とともに戦陣と化し、蜂屋半之丞(はちやはんのじょう)、渡辺半蔵(わたなべはんぞう)らが立てこもって守護したが、翌7年1月20日、家康方の兵火にかかり、大伽藍も鳥有に帰する。 一揆敗北後、当寺は国外追放となり、縁故を求めて信州井上に逃れた。 | 
| 天正8年 (1580) | 14代 了明(りょうみょう)が生まれる。 | 
| これより先、了意・順誓(じゅんせい)兄弟大阪石山に籠城して功名あってその時教如上人(ちょうにょしょうにん)より矢文御書一通を賜う。 | |
| 天正13年 (1585) | 一揆落着の後、家康より道場屋敷の安堵を得て信州より帰国。 | 
| 天正19年 (1591) | 再興に意を用い、家康の関東移封を機会に、各地に通所又は末寺を設けて三河、尾張、美濃は勿論、江戸に至る要所要所に、又越前、加賀、紀州にも発展し、末寺道場の数は百数十ヵ寺に膨張していった。 | 
| 慶長6年7月 | 伊奈備前守忠次より黒印地五十石を許される。 | 
| 文禄〜慶長初年 | 東西分派への動きが活発になり、教如上人に加担し、東派に属した。 
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| 慶長14年 (1609) | 当寺への教如上人(きょうにょしょうにん)下向に際して、一部協力しなかった末寺門徒があり、その処分を不服として西へ転派したものもあった。 | 
| 時の住職 了明は、慶長19年 (1614)・寛永8年 (1631)秘事法門に功あって顕正院(けんしょういん)と追号された。 | |
| 元和元年 (1615) | 東西十一間半、南北九間柿葦(こけらぶき)の本堂が再建される。 | 
| 元和2年 (1616) | 新装なった本堂に宣如上人(せんにょしょうにん)の御立ち寄りがある。 | 
| 元和4年 (1616) | 梵鐘完成。 | 
| 延宝2年 (1674) | 山門等完成し、寺観を整える。 | 
| 寛永18年 (1641) | 14世 了明(了明)命終(62才) | 
| 15世 教了(きょうりょう)、内室として大久保忠隣(ただちか)の女を迎え、16世 宣了(せんりょう)内室も大久保家より入室。 | |
| 宝永6年 (1709) | 宣如上人外孫18世真了(しんりょう)、飛騨高山照蓮寺より入寺。 | 
| 享保19年 (1734) | 再再建し、瓦葺に改められ、現在の本堂となる。 | 
| 文政10年 (1827) | 24世 厳了(ごんりょう)、徳大寺大納言実堅卿と猶子関係を結ぶ。 | 
| 明治4年 (1871) | 新政府の神仏分離政策に抗して一揆(護法一揆または大浜騒動という)を起し、多くの犠牲者を出し、厳了は、この仲裁役を引き受け大きな功績をおさめる。 | 
| 高層和讃 | 三十九葉 | 伝宗祖筆 | 
|---|---|---|
| 御文 | 二帖 | 実如上人筆 | 
| 歴代法名記 | 五通 | 実如、証如、顕如証判 | 
| 御俗姓 | 一巻 | 教如上人筆 | 
| 阿弥陀経延書 | 一巻 | 室町末期 岡崎市文化財指定 | 
| 矢文御書 | 一巾 | 教如上人筆 | 
| 御書 | 一巾 | 證如上人筆 | 
| 慶長十四年連判状 | 一軸 | |
| 飛騨照蓮寺文書 | 一巻 | 室町中期〜江戸初期 | 
| 佐奈姫関係文書 | ||
| 開基木像蓮 | 一体 | |
| 蓮如上人木像 | 一体 | |
| 本山歴代御影 | 二十幅 | 慶長〜明治 | 
| 当寺歴代御影 | 十三幅 | |
| 板倉家関係御影 | 三幅 | |
| 柳堂本尊古記 他古文書記録多数 | 一軸 | |
| 勝鬘寺系図 | 一巻 | |
| 本願寺綽如上人文脈 勝鬘寺系図 | 一巻 | |
| 顕正院母儀里方 織田家系図 | 一巻 | |
| 月正院内室於甲斐ノ里方 大老大久保家系図 | 一巻 | |
| 一音院妙好禅尼里方 金森家系図 | 一巻 | |
| 本願寺系図 | 一巻 | |
| 明治四年大浜騒動に関する 末寺総連判状 | 一冊 | 

 
 
 
